法相続人経

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Majjhimanikāya

Mūlapaṇṇāsapāḷi

1. Mūlapariyāyavagga

  3.Dhammadāyādasutta

     法相続人経

                                                             〔 〕:補足、( ):説明


29   このように私によって聞かれました。或る時(一時)世尊はサーワッティー(舎衛城)の
    ジェータワナ(祇陀林)にあるアナータピンディカ長者の僧園(祇園精舎)に滞在されておられた。

    実に、その時、世尊は比丘たちに呼びかけられた − 「比丘たちよ」と。
    「尊師よ」と彼ら比丘たちは世尊に応えた。



          [法の相続、財の相続、および世間の評価]


    世尊はこのように言われた−
    「比丘達よ、私の法の相続人になりなさい、財の相続人になってはなりません。


    私に、あなた方に対する憐れみがあります−
    『どうだろう、私の弟子たちは法の相続人であって、財の相続人になっていないだろうか?』と。


    比丘達よ、あなた方が、私の財の相続人であって、法の相続人でないならば、
    それゆえに、あなた方は指摘を受けるでしょう−
    『師の弟子たちは、財の相続人として住しており、法の相続人ではない』と。
    それゆえに、私もまた指摘を受けるでしょう−
    『師の弟子たちは、財の相続人として住しており、法の相続人ではない』と。


    しかし、比丘達よ、あなた方が、私の法の相続人であって、財の相続人でないならば、
    それゆえに、あなた方は指摘を受けないでしょう−
    『師の弟子たちは、法の相続人として住しており、財の相続人ではない』と。
    それゆえに、私もまた指摘を受けないでしょう−
    『師の弟子たちは、法の相続人として住しており、財の相続人ではない』と。
    それゆえに、ここに、比丘達よ、私の法の相続人になりなさい、財の相続人になってはなりません。


    私に、あなた方に対する憐れみがあります−
    『どうだろう、私の弟子たちは法の相続人であって、財の相続人になっていないだろうか?』と。



          [財への接し方とその理由]


30   ここに、比丘達よ、私は
    欲するだけ気ままに十分に食事をし、食べ終わって満腹になったとしましょう、
    そして、私には、[この]托鉢食は、残余のもの、捨てられるべきものであるとします。
    時に、飢えて弱り打ち負かされた二人の比丘が来たとしましょう。
    私は彼らにこのように言います − 『比丘達よ、実に、私は
    欲するだけ気ままに十分に食事をし、食べ終わって満腹になっています、
    そして、私には、この托鉢食は、残余のもの、捨てられるべきものです。
    もし望むのであれば食べなさい、もし、あなた方が食べないのであれば、
    今、私は、無草地に捨てるか、或は無虫の水に沈めるだろう』と。


    その時、一人の比丘にこのような(思い)があったとしましょう−
    『実に、世尊は欲するだけ気ままに十分に食事をし、食べ終わって満腹になられています、
    そして、世尊には、この托鉢食は、残余のもの、捨てられるべきものです。
    もし、私たちが食べなければ、
    今、世尊は、無草地に捨てるか、或は無虫の水に沈められるだろう。
    しかし、実に、世尊によって、このように説かれたのだ−
    《比丘達よ、私の法の相続人になりなさい、財の相続人になってはなりません》と。
    そして、実に、これ即ち托鉢食は、財の一つである。
    私は、この托鉢食を食べずして、まさに、この飢えて弱った[身体]で
    このように、この夜昼を過ごすとしよう』と。
    彼は、その托鉢食を食べずして、まさに、その飢えて弱った[身体]で
    このように、その夜昼を過ごすでしょう。


    また、第二の比丘にこのような[思い]があったとしましょう−
    『実に、世尊は欲するだけ気ままに十分に食事をし、食べ終わって満腹になられています、
    そして、世尊にとっては、この托鉢食は、残余のもの、捨てられるべきものです。
    もし、私たちが食べなければ、
    今、世尊は、無草地に捨てるか、或は無虫の水に沈められるだろう。
    私は、この托鉢食を食べて、飢えて弱った[身体]を除いて、
    このように、この夜昼を過ごすとしよう』と。
    彼は、その托鉢食を食べて、飢えて弱った[身体]を除いて
    このように、その夜昼を過ごすでしょう。


    比丘たちよ、たとえ、その比丘が、その托鉢食を食べて
    飢えと衰弱を除いて
    このようにその夜昼を過ごしたとしても、
    実に、私にとって、その最初の比丘こそが、より尊敬されるべきであり、賞賛されるべきなのです。
    それはどういう理由(わけ)でしょうか?
    比丘たちよ、実に、それは、その比丘にとって、長きに渡って、少欲、知足、
    削減、易養性、精進努力に作用するからです。
    それゆえに、ここに、比丘達よ、私の法の相続人になりなさい、財の相続人になってはなりません。


    私に、あなた方に対する憐れみがあります−
    『どうだろう、私の弟子たちは法の相続人であって、財の相続人になっていないだろうか?』と。
    世尊はこのように言われた。このように言われて
    善逝は座より立ち上がって精舎に入って行かれた。



          [法相続の具体的な説明および世間の評価]


31   その時、実に、尊者サーリプッタは、世尊が去って間もなく比丘たちに呼びかけた−
    「友らよ、比丘らよ」と。
    「友よ」と、実に、彼ら比丘たちは尊者サーリプッタに応えた。
    尊者サーリプッタは、[財に溺れ在家に親しみ、法の相続を疎んじる出家者にまず必要なことは「遠離」であるとの思いから]
    このように言った−
    「友らよ、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいないと、どうなるでしょうか?
    或は、また、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいると、どうなるでしょうか?」と。
    「実に、友よ、我々が遠くから来るのも、
    尊者サーリプッタのもとでこの言説の意味を理解するため[です]。
    どうぞ、まさに尊者サーリプッタにこそ、この言説の意味が現れよ(尊者サーリプッタこそ、この言説の意味を明らかにされよ)、
    尊者サーリプッタに聞いて、比丘たちは保持したいものです」と。
    「然らば、友らよ、聞きなさい、善く意において為しなさい(友らよ、聞いて、善く考えなさい)、話しましょう」と。
    「そのように、友よ」と、彼ら比丘たちは尊者サーリプッタに応えた。


    尊者サーリプッタはこのように説いた−
    「友らよ、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいないと、どうなるでしょうか?
    ここに(つまり)、友らよ、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいない、
    そして、[弟子たちは]師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てていない、
    そして、[弟子たちは]贅沢で、放慢で、堕落に対しては前進し、
    遠離に向かっては置きっ放しにされた荷物のように[動かない状況ということです]。


    その場合、友らよ、長老比丘たちは、三つの理由によって非難されるべきです。
    『師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちは遠離を随い学んでいない』と−
    この第一の理由によって長老比丘たちは非難されるべきです。
    『そして、師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てていない』 と−
    この第二の理由によって、長老比丘たちは非難されるべきです。
    『そして、贅沢で、放慢で、堕落に対しては前進し、遠離に向かっては置きっ放しにされた荷物のように[動かない状況]である』と−
    この第三の理由によって、長老比丘たちは非難されるべきです。
    友らよ、長老比丘たちは、これら三つの理由によって非難されるべきです。
    さて次に、友らよ、中堅比丘たちは ・・・ 中略 ・・・
    新参比丘たちは三つの理由によって非難されるべきです。
    『師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちは遠離を随い学んでいない』と−
    この第一の理由によって新参比丘たちは非難されるべきです。
    『そして、師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てていない』 と−
    この第二の理由によって、新参比丘たちは非難されるべきです。
    『そして、贅沢で、放慢で、堕落に対しては前進し、遠離に向かっては置きっ放しにされた荷物のように[動かない状況]である』と−
    この第三の理由によって、新参比丘たちは非難されるべきです。
    友らよ、新参比丘たちは、これら三つの理由によって非難されるべきです。
    友らよ、実に、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいないと、このようになるのです。


32   或は、また、友らよ、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいると、どうなるでしょうか?
    ここに(つまり)、友らよ、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいる、
    そして、[弟子たちは]師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てている、
    そして、[弟子たちは]贅沢でなく放慢でなく、堕落に対しては置きっ放しにされた荷物のように[動かず]、
    遠離に向かっては前進している[状況ということです]。


    その場合、友らよ、長老比丘たちは、これら三つの理由によって賞賛されるべきです。
    『師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちは遠離を随い学んでいる』と−
    この第一の理由によって長老比丘たちは賞賛されるべきです。
    『そして、師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てている』 と−
    この第二の理由によって、長老比丘たちは賞賛されるべきです。
    『そして、贅沢でなく放慢でなく、堕落に対しては置きっ放しにされた荷物のように[動かず]、遠離に向かっては前進している』と−
    この第三の理由によって、長老比丘たちは賞賛されるべきです。
    友らよ、長老比丘たちはこれら三つの理由によって賞賛されるべきです。
    さて次に、友らよ、中堅比丘たちは ・・・ 中略 ・・・
    新参比丘たちは三つの理由によって賞賛されるべきです。
    『師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちは遠離を随い学んでいる』と−
    この第一の理由によって新参比丘たちは賞賛されるべきです。
    『そして、師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てている』 と−
    この第二の理由によって、新参比丘たちは賞賛されるべきです。
    『そして、贅沢でなく放慢でなく、堕落に対しては置きっ放しにされた荷物のように[動かず]、遠離に向かっては前進している』と−
    この第三の理由によって、新参比丘たちは賞賛されるべきです。
    友らよ、新参比丘たちはこれら三つの理由によって賞賛されるべきです。
    友らよ、実に、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいると、このようになるのです。



          [捨断すべき法とその方法]


33   さて、友らよ、[二番目の「捨断すべき法」について補足説明をしておきましょう、]
    貪り[という法]は悪しきものであり、怒り[という法]は悪しきものです。
    貪り[という法]の捨断のために、怒り[という法]の捨断のために、中道があり、
    [その実践が]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導くのです。


    友らよ、[実践すれば]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導く、その中道とはどのようなものでしょうか?
    それこそは聖なる八正道のことであり、つまり
    正見、正思惟、正語、正業、
    正命、正精進、正念、正定のことです。
    友らよ、これが、その中道のことであり、
    [その実践が]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導くのです。


    さて、友らよ、瞋り[という法]は悪しきものであり、恨み[という法]は悪しきものです。・・・ 中略 ・・・


    覆[という法]は悪しきものであり、悩[という法]は悪しきものです。
    嫉妬[という法]は悪しきものであり、物惜しみ[という法]は悪しきものです。
    誑(たぶらかし)[という法]は悪しきものであり、諂(へつらい)[という法]は悪しきものです。
    強情[という法]は悪しきものであり、激情[という法]は悪しきものです。
    慢[という法]は悪しきものであり、過慢[という法]は悪しきものです。

    憍慢[という法]は悪しきものであり、放逸[という法]は悪しきものです。
    憍慢[という法]の捨断のために、放逸[という法]の捨断のために、中道があり、
    [その実践が]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導くのです。


    友らよ、[実践すれば]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導く、その中道とはどのようなものでしょうか?
    それこそは聖なる八正道のことであり、つまり
    正見、正思惟、正語、正業、
    正命、正精進、正念、正定のことです。
    友らよ、これが、その中道のことであり、
    [その実践が]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導くのです。


    尊者サーリプッタはこのように説いた。
    適意の彼ら比丘たちは尊者サーリプッタの言説に歓喜した、と。


    第三の法相続人経が終了した。


     (注)「無草地に捨てるか、或は無虫の水に沈める」とは、油類の残飯を捨てることによる生態系への影響を抑える配慮と思われる。
         自然復元力の範囲であれば大きな問題はないであろう。また、小動物の餌ともなりうるであろう。


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