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五戒に関連したお経(2)

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支部経典
十集

17. ジャーヌッソーニ品(生聞品)


10. チュンダ(淳陀)経

176.
私はこのように聞きました、ある時、世尊はパーワー(チャンパー:アンガ国の首都)の鍛工子チュンダのマンゴー林に滞在されていた。

時に、鍛工子チュンダは世尊のところへ行った。行って、世尊に礼拝し、一方に座った。

一方に座った鍛工子チュンダに、世尊は次のように言われた、「チュンダよ、汝は何に対して清浄行であると認めますか?」と。

「尊師よ、婆羅門たちが、西を向き、注水口のついた容器を持ち、苔草の花冠を付け、火を祀り、また沐浴することが清浄行であると知られています、私はそれらに対して清浄行であると認めます」と。

「チュンダよ、なぜ、婆羅門たちが、西を向き、注水口のついた容器を持ち、苔草の花冠を付け、火を祀り、また沐浴することが清浄行であると知られるのですか?」と。

「ここに、尊師よ、婆羅門たちは、西を向き、注水口のついた容器を持ち、苔草の花冠を付け、火を祀り、また沐浴し、彼らは弟子にこのように訓戒しています、

『さあ、いざ、男子よ、汝は早朝に臥処から起きて、地面に触れるがよい、

もし、地面に触れないなら、湿った牛糞に触れるがよい、

もし、湿った牛糞に触れないなら、青草に触れるがよい、

もし、青草に触れないなら、火を祀るがよい、

もし、火を祀らないなら、合掌して太陽に礼拝するがよい、

もし、合掌して太陽に礼拝しないなら、夕方に第三回(一日三回)の沐浴をするがよい』と。

このように、尊師よ、婆羅門たちは、西を向き、注水口のついた容器を持ち、苔草の花冠を付け、火を祀り、また沐浴することから清浄であると知られています、私はそれらに対して清浄行であると認めます」と。

「チュンダよ、婆羅門たちが、西を向き、注水口のついた容器を持ち、苔草の花冠を付け、火を祀り、また沐浴することから清浄であると知られていることと、聖者の律における清浄行とは異なっています」と。

「尊師よ、聖者の律における清浄行とは、どのようなものですか?

尊師よ、世尊は、どうか、私に、聖者の律における清浄行であるような、そのような法を説いて下さい」と。

「それでは、チュンダよ、聞いて、善く如理作意しなさい、(私は)説きましょう」と。

「そのように(致します)、尊師よ」と、鍛工子チュンダは世尊に答えた。世尊は次のように言われた、

「チュンダよ、身体による三種の不浄行があり、言葉による四種の不浄行があり、意(心)による三種の不浄行があります。

チュンダよ、三種の身体による不浄行とは何でしょうか?

ここに、チュンダよ、一類の者は、殺生します、凶暴で 手を血で汚し 殺したものに執着があり、一切の生命に無慈悲です。

(一類の者は、)与えられていないものを取ります、村に行って、あるいは林に行って他人の(家屋)以外にある財産・資具であるところのその与えられていないものを盗み取ります。

(一類の者は、)諸欲において邪行をします。それは、母に守られている、父に守られている、母と父に守られている、兄に守られている、姉に守られている、親戚に守られている、家系に守られている、(善行により)法に守られている、夫のいる、(修道に励むために)杖罰に守られている、あるいは、(他の男性によって贈られた装飾品で)髪や首を飾っている女性、その如きと交わることです。

このように、チュンダよ、(これが)三種の身体による不浄行です。

チュンダよ、四種の言葉による不浄行とは何でしょうか?

チュンダよ、ここに、一類の者は、偽りを語ります。

集会に関係した者、あるいは集団に関係した者、あるいは親戚の中にある者、あるいは組合の中にある者、あるいは王家の中にある者が、呼ばれて証人として問われる、

『いざ、さて、男子よ、(汝が)知るところのそれを言いなさい』と。

彼は知らないことを『(私は)知っている』と言い、知っていることを『(私は)知らない』と言う。見ていないことを『(私は)見た』と言い、見たことを『(私は)見ていない』と言う。

このように、自分のために、他人のために、些細な利益のために、意図的な嘘が語られます。

(一類の者は、)離間語を語ります。(彼は)こちらで聞いたことを、こちらに対して不和になるようにそちらに告げる、あるいは、そちらで聞いたことを、そちらに対して不和になるようにこちらに告げる。

(彼は)このように諸和合を破壊し、諸破壊を招き、不和に満足し、不和を楽しみ、不和を喜び、不和をもたらす言葉を語ります。

(一類の者は、)粗悪語を語ります。激しく粗暴で他人に辛辣で他人を叱責する、怒りの類の、集中のない状態に至らしめるところの言葉、その如き言葉を語ります。

(一類の者は、)綺語を語ります。ふさわしくない時に語り、真実でないことを語り、益の無いことを語り、法にあらざることを語り、律にあらざることを語ります、(彼は)ふさわしくない時に、理由なく、制限なく、利益なく、念頭に置く価値なき言葉を語ります。

このように、チュンダよ、(これが)四種の言葉による不浄行です。

チュンダよ、三種の意(心)による不浄行とは何でしょうか?

ここに、チュンダよ、一類の者は、貪ります。他人の(家屋)以外にある財産・資具であるところのそれを『ああ、実に、あなたのものは私のものだ』と貪求します。

(一類の者は、)瞋恚心があり、『これら生命を殺せ、捕まえろ、破壊せよ、滅ぼせ、存在させるな』と憎悪の思惟をします。

(一類の者は、)邪見者であり、『施しはない、供養はない、供物はない、善悪行の業の結果・異熟はない、この世はない、あの世はない、母はいない、父はいない、化生の生命(母胎や卵などからでなく、忽然(こつぜん)として生まれるもの:天界や地獄の生命)はいない、この世あの世を自分で証智して作証して説くところの沙門婆羅門、正到達者、正行者は世間にいない』と見が顚倒しています。

このように、チュンダよ、(これが)意(心)による三種の不浄行です。

チュンダよ、これらが十不善業道です。

チュンダよ、これら十不善業道を具備した者は、

早朝に臥処から起きて、もし地面に触れても不浄であり、また、もし地面に触れなくても不浄です。

もし湿った牛糞に触れても不浄であり、また、もし湿った牛糞に触れなくても不浄です。

もし青草に触れても不浄であり、また、もし青草に触れなくても不浄です。

もし火を祀っても不浄であり、また、もし火を祀らなくても不浄です。

もし合掌して太陽に礼拝しても不浄であり、また、もし合掌して太陽に礼拝しなくても不浄です。

もし夕方に第三回(一日三回)の沐浴をしても不浄であり、また、もし夕方に第三回(一日三回)の沐浴をしなくても不浄です。

それ(不善業)は、何(どんな来世)に対する原因になっているでしょうか?

チュンダよ、これら十不善業道は不浄であり、不浄の所作です。

しかるに、チュンダよ、これら十不善業道が原因としてもたらすものは、地獄が知られています、畜生界が知られています、餓鬼界が知られています、あるいは、また、他の何らかの悪趣(です)。


チュンダよ、三種の身体による清浄行があり、四種の言葉による清浄行があり、三種の意(心)による清浄行があります。

チュンダよ、三種の身体による清浄行とは何でしょうか?

ここに、チュンダよ、一類の者は、殺生を捨て、殺生から離れて、棒を捨て刀を捨て恥を知り憐愍に至り、一切の生命への哀愍ある者として住します。

(一類の者は、)与えられていないものを取ることを捨て、与えられていないものを取ることから離れ、村に行って、あるいは林に行って他人の(家屋)以外にある財産・資具であるところのその与えられていないものを盗み取りません。

(一類の者は、)諸欲における邪行を捨て、諸欲における邪行から離れますが、それは、母に守られている、父に守られている、母と父に守られている、兄に守られている、姉に守られている、親戚に守られている、家系に守られている、(善行により)法に守られている、夫のいる、(修道に励むために)杖罰に守られている、あるいは、(他の男性によって贈られた装飾品で)髪や首を飾っている女性、その如きと交わらないことです。

このように、チュンダよ、(これが)三種の身体による清浄行です。

チュンダよ、四種の言葉の清浄行とは何でしょうか?

ここに、チュンダよ、一類の者は、妄語を捨て、妄語から離れます。

集会に関係した者、あるいは集団に関係した者、あるいは親戚の中にある者、あるいは組合の中にある者、あるいは王家の中にある者が、導かれ証人として問われる、

『いざ、さて、男子よ、(汝が)知るところのそれを言いなさい』と。

彼は知らないことを『(私は)知らない』と言い、知っていることを『(私は)知っている』と言う。見ていないことを『(私は)見ていない』と言い、見たことを『(私は)見た』と言う。

このように、自分のために、他人のために、些細な利益のために、意図的な嘘が語られません。

(一類の者は、)離間語を捨て、離間語から離れています。(彼は)こちらで聞いたことを、こちらに対して不和になるようにそちらに告げず、あるいは、そちらで聞いたことを、そちらに対して不和になるようにこちらに告げない。

(彼は)このように諸和合を調停し、諸融和を助長し、和合に満足し、和合を楽しみ、和合を喜び、和合をもたらす言葉を語ります。

(一類の者は、)粗悪語を捨て、粗悪語から離れています。柔和で耳に快く愛情あり快い上品で多くの人が愛し多くの人の意に適うところの言葉、その如き言葉を語ります。

(一類の者は、)綺語を捨て、綺語を離れています。ふさわしい時に語り、真実を語り、益の有ることを語り、法を語り、律を語ります、(彼は)ふさわしい時に、理由があって、制限をもち、利益あり、念頭に置く価値ある言葉を語ります。

このように、チュンダよ、(これが)四種の言葉による清浄行です。

チュンダよ、三種の意(心)による清浄行とは何でしょうか?

ここに、チュンダよ、一類の者は、貪りません。他人の(家屋)以外にある財産・資具であるところのそれを『ああ、実に、あなたのものは私のものだ』と貪求しません。

(一類の者は、)瞋恚心がなく、『これら生命は自身に対して怨みなく、怒りなく、動転することなく、幸福でありますように』と(思惟し、)憎悪の思惟をしません。

(一類の者は、)正見者であり、『施しはある、供養はある、供物はある、善悪行の業の結果・異熟はある、この世はある、あの世はある、母はいる、父はいる、化生の生命はいる、世間に、この世あの世を自分で証智して作証して説くところの沙門婆羅門、正到達者、正行者はいる』と見は顚倒していません。

このように、チュンダよ、(これが)意(心)による三種の清浄行です。

チュンダよ、これらが十善業道です。

チュンダよ、これら十善業道を具備した者は、

早朝に臥処から起きて、もし地面に触れても清浄であり、また、もし地面に触れなくても清浄です。

もし湿った牛糞に触れても清浄であり、また、もし湿った牛糞に触れなくても清浄です。

もし青草に触れても清浄であり、また、もし青草に触れなくても清浄です。

もし火を祀っても清浄であり、また、もし火を祀らなくても清浄です。

もし合掌して太陽に礼拝しても清浄であり、また、もし合掌して太陽に礼拝しなくても清浄です。

もし夕方に第三回(一日三回)の沐浴をしても清浄であり、もし夕方に第三回(一日三回)の沐浴をしなくても清浄です。

それ(善業)は、何(どんな来世)に対する原因になっているでしょうか?

チュンダよ、これら十善業道は清浄であり、清浄の所作です。

チュンダよ、これら十善業道が原因としてもたらすものは、天界が知られています、人間界が知られています、あるいは、また、他の何らかの善趣を(もたらします)」と。

このように言われた時、鍛工子チュンダは世尊に次のように言った、

「偉なる哉、尊師よ、・・・中略・・・尊師よ、私を優婆塞としてご承知おき下さい。今日以後、生きている限り帰依致します」と。10番目(のお経が終わった)。





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五戒に関連したお経(1)

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支部経典
五集

(18) 3.優婆塞品


1.畏怖経

171.
このように私は聞きました、ある時、世尊はサーワッティのジェータ林のアナータピンディカの僧院(祇園精舎)に滞在されていました。

その時、世尊は比丘たちに呼びかけられた、「比丘たちよ」と。

「尊師よ」と、彼ら比丘たちは世尊に応えた。世尊は次のように言われた、

「比丘たちよ、五法を具備した優婆塞は恐れがあります。五法とは何か?

殺生、与えられていないものを取ること、諸欲における邪行、妄語、穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因となるものです。

比丘たちよ、これら五法を具備した優婆塞は恐れがあります。

比丘たちよ、五法を具備した優婆塞は恐れがありません。五法とは何か?

殺生から離れること、与えられていないものを取ることから離れること、諸欲における邪行から離れること、妄語から離れること、穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因となるものから離れることです。

比丘たちよ、これら五法を具備した優婆塞は恐れがありません」と。


2.無畏経

172.
「比丘たちよ、五法を具備した優婆塞は恐れながら家に住しています。

五法とは何か?殺生、与えられていないものを取ること、諸欲における邪行、妄語、穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因となるものです。

比丘たちよ、これら五法を具備した優婆塞は恐れながら家に住しています。

比丘たちよ、五法を具備した優婆塞は恐れなく家に住しています。

五法とは何か?殺生から離れること、与えられていないものを取ることから離れること、諸欲における邪行から離れること、妄語から離れること、穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因となるものから離れることです。

比丘たちよ、これら五法を具備した優婆塞は恐れなく家に住しています」と。


3.地獄経

173.
「比丘たちよ、五法を具備した優婆塞は(死後)運ばれるように、そのように地獄に生まれ変わります。

五法とは何か?殺生、与えられていないものを取ること、諸欲における邪行、妄語、穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因となるものです。

比丘たちよ、これら五法を具備した優婆塞は(死後)運ばれるように、そのように地獄に生まれ変わります。

比丘たちよ、五法を具備した優婆塞は(死後)運ばれるように、そのように天界に生まれ変わります。

五法とは何か?殺生から離れること、与えられていないものを取ることから離れること、諸欲における邪行から離れること、妄語から離れること、穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因となるものから離れることです。

比丘たちよ、これら五法を具備した優婆塞は(死後)運ばれるように、そのように天界に生まれ変わります」と。


4.怨経

174.
時に、アナータピンディカ居士は世尊のところへ行った、

行って、世尊に礼拝し、一方に座った。

一方に座ったアナータピンディカ居士に、世尊は次のように言われた、

「居士よ、五つの恐れや怨みを捨てず『破戒者』と言われる(人は)、地獄に生まれ変わります。

五つとは何か?

殺生、与えられていないものを取ること、諸欲における邪行、妄語、穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因となるものです。

居士よ、これら五つの恐れや怨みを捨てず『破戒者』と言われる(人は)、地獄に生まれ変わります。

居士よ、五つの恐れや怨みを捨てて『持戒者』と言われる(人は)、善趣に生まれ変わります。

五つとは何か?

殺生、与えられていないものを取ること、諸欲における邪行、妄語、穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因となるものです。

居士よ、これら五つの恐れや怨みを捨てて『持戒者』と言われる(人は)、善趣に生まれ変わります。

居士よ、殺生する者は殺生故に現世に恐れや怨みを生じ、
後世にも恐れや怨みを生じ、心に苦しみや憂いを受けます。

殺生から離れた者は現世に恐れや怨みを生ぜず、
後世にも恐れや怨みを生ぜず、心に苦しみや憂いを受けません。

殺生から離れた者にとって、このようなその恐れや怨みは静まっています。

居士よ、与えられていないものを取る者は・・・中略・・・

居士よ、諸欲において邪行を為す者は・・・中略・・・

居士よ、妄語を語る者は・・・中略・・・

居士よ、穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因となるものを取る者は穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因となるものを取る故に現世に恐れや怨みを生じ、後世にも恐れや怨みを生じ、心に苦しみや憂いを受けます。

穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因から離れる者は穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因から
離れる故に現世に恐れや怨みを生ぜず、後世にも恐れや怨みを生ぜず、心に苦しみや憂いを受けません。

穀酒・果酒や酔わしめるものなど放逸の原因から離れた者にとって、
このようなその恐れや怨みは静まっています」と。


「生命を殺し、妄語を語り、

世間において、与えられていないものを取り、他人の妻と交わり、

穀酒や果酒などの飲み物を飲む人は、

五つの怨みを捨てず、破戒者と言われる。

身体の滅び(死)ゆえに、愚かなる彼は地獄に生まれ変わる。

生命を殺さず、妄語を語らず、

世間において、与えられていないものを取らず、他人の妻と交わらず、

穀酒や果酒などの飲み物を飲まない人は、

五つの怨みを捨てて、持戒者と言われる。

身体の滅び(死)ゆえに、智慧ある彼は善趣に生まれ変わる」と。




小部経典

ダンマパダ(法句経)

18.汚(けが)れの章

246.
生命を殺し、妄語を語り、

世間において与えられていないものを取り、他人の妻と交わり、

247.
穀酒・果酒などの飲み物を飲む人、

そのような彼は、この世で、自分の根本(人格)を破壊する。



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如是語経・涅槃界経

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小部経典
4.如是語経
7.涅槃界経

                                                            〔 〕:補足、( ):説明

44
実に、これが世尊によって説かれたこと、阿羅漢によって説かれたことと、私は伝え聞いています。


比丘たちよ、これら2つの涅槃の状態があります。
2つとは何でしょうか?有余依涅槃の状態と無余依涅槃の状態です。


比丘たちよ、有余依涅槃の状態とは何でしょうか?


ここに、比丘たちよ、比丘は阿羅漢となり、煩悩が尽き、完成し、為されるべきことが為され、重荷(煩悩)をおろしました。
自分の利益(阿羅漢果)を得て、存在の縛りを滅して、正しく完全智で解脱したのです。


[しかし]彼の五根はまだ存続しています。というのは破壊されていないからです。
[従って彼は]意に敵うもの意に敵わないものを経験し、楽と苦を受けます。
[それでも]彼は貪を滅し、瞋を滅し、痴を滅した者です---
比丘たちよ、これを有余依涅槃[を体験した]状態と言います。


比丘たちよ、無余依涅槃の状態とは何でしょうか?


ここに、比丘たちよ、比丘は阿羅漢となり、煩悩が尽き、完成し、為されるべきことが為され、重荷(煩悩)をおろしました。
自分の利益(阿羅漢果)を得て、存在の縛りを滅して、正しく完全智で解脱したのです。


比丘たちよ、ここ(臨終を迎えた時)に彼の一切を感受した[五根]は楽しむことなく、冷たくなるでしょう。
比丘たちよ、これ(阿羅漢の死)を無余依涅槃の状態と言います。


比丘たちよ、実に、これら2つの涅槃の状態があります」と。
世尊はこの教えを説かれた。


その時、これを次のようにも言われた

「これら2つの涅槃の状態は具眼者たる無依の、その如き者(世尊)によって明らかにされた。
実に、一つの状態である有余[涅槃]は、ここ現世[で体験する]ものであり、生存に導くもの(無明・煩悩・渇愛)を滅している。
また無余[涅槃]は未来(阿羅漢の死の時)のことであり、そこでは、あまねく存在が滅している。
解脱した心は生存に導くもの(無明・煩悩・渇愛)を滅している故に、これを無為処(涅槃)と了知して(いるところの)
彼らは、法の核心に到達して滅尽を喜んでおり、それら一切の存在を捨断したそのような者たちである」と。


この教えも世尊によって説かれた、と私は伝え聞いています。

第七[のお経が終了した]。





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自説経・涅槃に関係したお経4つ

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小部経典
3.自説経(無問自説経)
8.パータリ村の[人]品
                                                       〔 〕:補足、( ):説明

1.第一の「涅槃に関係したお経」
71
このように私によって聞かれました。或る時(一時)世尊はサーワッティ(舎衛城)の祇園精舎に滞在されておられた。
実に、また、その時をもって、世尊は比丘たちに涅槃に関係した説法をもって教示し訓戒し鼓舞し歓喜せられた。
ここに彼の比丘らは、[解脱(覚り、悟り)という]目的を持って、注意して一切を心に思念して、耳を傾けて法を聞いた。
そこで世尊はこの事(彼らの意気込み)を知りて、その時この自説経を話された。


「比丘たちよ、このような状態があります、そこには地も、水も、火も、風も、
空無辺処も、識無辺処も、無所有処も、非想非非想処も、この世も、あの世も、月と太陽の両者もありません。
さらに、また、比丘たちよ、私は[誰かが、そこから]来ることを、[そこへ]行くことを、[そこに]住むことを、
[そこで]死ぬことを、生まれ変わることを説きません。
これ(涅槃)は、[何ものにも]依存せず、[何ものにも]作用せず、[つまり縁起の]対象になりません。
これ(涅槃)こそが苦の終り(滅)です」と。
第一の[お経が終了した]




2.第二の「涅槃に関係したお経」
72
このように私によって聞かれました。或る時(一時)世尊はサーワッティ(舎衛城)の祇園精舎に滞在されておられた。
実に、また、その時をもって、世尊は比丘たちに涅槃に関係した説法をもって教示し訓戒し鼓舞し歓喜せられた。
ここに彼の比丘らは、[解脱(覚り、悟り)という]目的を持って、注意して一切を心に思念して、耳を傾けて法を聞いた。
そこで世尊はこの事(彼らの意気込み)を知りて、その時この自説経を話された。


「向かう方向のないもの(涅槃)は見難いということで、実に真理は見易くないのです。
しかし、知者であり見者である者にとって、渇愛は見通され、[無明など]何ものも残っていないのです」と。
第二の[お経が終了した]




3.第三の「涅槃に関係したお経」
73
このように私によって聞かれました。或る時(一時)世尊はサーワッティ(舎衛城)の祇園精舎に滞在されておられた。
実に、また、その時をもって、世尊は比丘たちに涅槃に関係した説法をもって教示し訓戒し鼓舞し歓喜せられた。
ここに彼の比丘らは、[解脱(覚り、悟り)という]目的を持って、注意して一切を心に思念して、耳を傾けて法を聞いた。
そこで世尊はこの事(彼らの意気込み)を知りて、その時この自説経を話された。


「比丘たちよ、[そこでは、新しく]生まれるものがなく、[すでに]存在しているものもなく、働き(活動)なく、縁起の法も受けません。
比丘たちよ、もし、[新しく]生まれるものがなく、[すでに]存在しているものもなく、働き(活動)なく、縁起の法を受けないということが無いならば、
この世で、[新しく]生まれるもの、[すでに]存在しているもの、働き(活動)、縁起の法から解脱するということは分からないでしょう。
比丘たちよ、実に、[そこでは、新しく]生まれるものがなく、[すでに]存在しているものもなく、働き(活動)なく、縁起の法も受けることもないので、
それを体験すれば、[この世で、新しく]生まれるもの、[すでに]存在しているもの、働き(活動)、縁起の法から解脱したということが分かるのです」と。
第三の[お経が終了した]




4.第四の「涅槃に関係したお経」
74
このように私によって聞かれました。或る時(一時)世尊はサーワッティ(舎衛城)の祇園精舎に滞在されておられた。
実に、また、その時をもって、世尊は比丘たちに涅槃に関係した説法をもって教示し訓戒し鼓舞し歓喜せられた。
ここに彼の比丘らは、[解脱(覚り、悟り)という]目的を持って、注意して一切を心に思念して、耳を傾けて法を聞いた。
そこで世尊はこの事(彼らの意気込み)を知りて、その時この自説経を話された。


「依存する者に動揺があり、依存しない者に動揺はない。
動揺のないところに軽安があり、軽安のあるところに縛り付け(定め)はない。
縛り付け(定め)のないところに行き来はなく、行き来のないところに死生はない。
死生のないところにこの世もなくあの世もなく両者の中間もない。
これ(涅槃)こそが苦の終り(滅)です」と。
第四の[お経が終了した]




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アンバラッティカー・ラーフラ教誡経

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Majjhimanikāya

Majjhimapaṇṇāsa

2. Bhikkhuvaggo

  1. Ambalaṭṭhikarāhulovādasuttaṃ

     アンバラッティカーでのラーフラ教誡経
                                                                          〔 〕:補足、( ):説明
107
      このように私によって聞かれました。或る時(一時)世尊はラージャガハ(王舎城)の
      竹林精舎に滞在されておられた。
      実に、また、その時をもって、尊者ラーフラ(当時7歳:沙弥)はアンバラッティカーに滞在されていた。
      時に、世尊は、夕暮れ時に、独坐から出定され、
      アンバラッティカーの尊者ラーフラのいる所へ近づかれた。
      その時、尊者ラーフラは、遥か遠くから来られつつある世尊を見た。
      見て、座と足[を洗う]ための水を用意した。
      世尊は用意された座に座られた。座って両足を洗われた。
      その時、尊者ラーフラは世尊に礼拝して一方に座った。


108
      [修習に必要な恥・怖れ]
      そこで、世尊は、少し残った水を容器に留めて、尊者ラーフラに話しかけられた−
      「ラーフラよ、あなたには見えますか?この少し残った水が容器に留まっているのが?」と。「はい、尊師よ」
      「ラーフラよ、実に、このように、故意の妄語に対して恥のない者たちの沙門性は少ないのです」と。
      次に、世尊は、少し残っていた水を捨てて、尊者ラーフラに話しかけられた−
      「ラーフラよ、あなたには見えますか?少し残っていた水が捨てられたのが?」と。「はい、尊師よ」
      「ラーフラよ、実に、このように、故意の妄語に対して恥のない者たちの沙門性は捨てられたのです」と。
      次に、世尊は、水の容器を倒して、尊者ラーフラに話しかけられた−
      「ラーフラよ、あなたには見えますか?この水の容器が倒されているのが?」と。「はい、尊師よ」
      「ラーフラよ、実に、このように、故意の妄語に対して恥のない者たちの沙門性は倒されているのです」と。
      次に、世尊は、水の容器を起こして、尊者ラーフラに話しかけられた−
      「ラーフラよ、あなたには見えますか?この水の容器は水が捨てられ空であるのが?」と。「はい、尊師よ」
      「ラーフラよ、実に、このように、故意の妄語に対して恥のない者たちの沙門性は捨てられ空っぽなのです。


      [恥・怖れがある場合の喩え]
      ラーフラよ、例えば王象が轅(ながえ)のような牙[を有し]、りっぱな生まれで、戦場に慣れており、
      戦場に行った時に、前足でも戦い、後ろ足でも戦い、前半身でも戦い、後半身でも戦い、
      頭でも戦い、耳でも戦い、牙でも戦い、尾でも戦い、
      ただ、鼻だけを守っているとしましょう。
      その時、象兵はこのように[思い]ます−
      『実に、この王像は轅(ながえ)のような牙[を有し]、りっぱな生まれで、戦場に慣れており、
      戦場に行った時に、前足でも戦い、後ろ足でも戦い、・・・中略・・・、尾でも戦い、
      ただ、鼻だけを守っている。
      実に、王象にとって命は捨てられていない(命を惜しんでいる)』と。


      [恥・怖れのない場合の喩え]
      そこから[一歩進んで]、ラーフラよ、実に、王象が轅(ながえ)のような牙[を有し]、
      りっぱな生まれで、戦場に慣れており、
      戦場に行った時に、前足でも戦い、後ろ足でも戦い、・・・中略・・・、尾でも戦い、
      鼻でも戦っている。
      その時、象兵はこのように[思い]ます−
      『実に、この王象は轅(ながえ)のような牙[を有し]、りっぱな生まれで、戦場に慣れており、
      戦場に行った時に、前足でも戦い、後ろ足でも戦い、前半身でも戦い、後半身でも戦い、
      頭でも戦い、耳でも戦い、牙でも戦い、尾でも戦い、
      鼻でも戦っている。
      実に、王象にとって命は捨てられている(王象は命知らずだ、命を惜しんでいない)。
      今や、王象にとって、出来ないことは何もない』と。

      このように、ラーフラよ、実に、どんな恥もない者にとって、故意に偽りを語る時、
      どんな悪も、やってはいけないことではなくなってしまう、と私は説きます。
      それ故に、ここに、あなたによって、ラーフラよ、『[私は]冗談にも偽って話さないようにしよう』と−
      このように、実に、あなたによって、ラーフラよ、学ばれるべきです。


109
      ラーフラよ、これをどう思いますか?鏡にはどんな使命があるのか?」と。
      「尊師よ、[自らの姿の]観察が目的です」と。
      「ラーフラよ、そのように(鏡を観るように)、実に、
      観察して、観察して、身による行為は為されるべきです、
      観察して、観察して、口による行為は為されるべきです、
      観察して、観察して、意による行為は為されるべきです。


      [行為直前のサティ(気づき)
    11 ラーフラよ、あなたが為すことを欲したところの身による行為
      まさに、その身行は、あなたによって観察されるべきです−
      『私は身によるこの行為を為すことを欲したかどうか?
      私のこの身行は、自分を害するだろうかどうか、他人を害するだろうかどうか、両者を害するだろうかどうか−
      つまり、この身行は不善かどうか、苦を生じ、苦を結果するかどうか(招来するかどうか)?』 と。


    12 ラーフラよ、もし、あなたが観察しつつある時に、次のように知るならば−
      『確かに、私は身によるこの行為を為すことを欲した
      私のこの身行は自分を害するだろう、他人を害するだろう、[結局は]両者を害するだろう−
      つまり、この身行は不善であり、苦を生じ、苦を結果する(招来する)ものである』 と、
      ラーフラよ、身によるこのような行為は、あなたによって、当然、為されるべきではない。
    13 しかし、ラーフラよ、もし、あなたが観察しつつある時に、次のように知るならば−
      『確かに、私は身によるこの行為を為すことを欲した
      私のこの身行は自分を害さないだろう、他人を害さないだろう、[結局は]両者を害さないだろう−
      つまり、この身行は善であり、楽を生じ、楽を結果する(招来する)ものである』 と、
      ラーフラよ、身によるこのような行為は、あなたによって、為されるべきです。


      [行為中のサティ(気づき)]
    14 ラーフラよ、あなたが身による行為を為している時に、
      その身行は、あなたによって観察されるべきです−
      『私は身によるこの行為を為しているかどうか?
      私のこの身行は自分を害しているかどうか、他人を害しているかどうか、両者を害しているかどうか−
      つまり、この身行は不善かどうか、苦を生じ、苦を結果するかどうか(招来するかどうか)?』 と。


    15 その時、ラーフラよ、もし、あなたが観察しつつある時に、次のように知るならば−
      『確かに、私は身によるこの行為を為している
      私のこの身行は自分を害している、他人を害している、[結局は]両者を害している−
      つまり、この身行は不善であり、苦を生じ、苦を結果する(招来する)ものである』 と、
      ラーフラよ、あなたは、このような身行を捨てるべきです。
    16 しかし、ラーフラよ、もし、あなたが観察しつつある時に、次のように知るならば−
      『確かに、私は身によるこの行為を為している
      私のこの身行は自分を害していない、他人を害していない、[結局は]両者を害していない−
      つまり、この身行は善であり、楽を生じ、楽を結果する(招来する)ものである』 と、
      ラーフラよ、あなたは、このような身行を[自分の為に、他人の為に、両者の為に]施与するべきです。


      [行為直後のサティ(気づき)]
    17 ラーフラよ、あなたを以てして(=あなたが)身による行為を為した後に、
      その身行は、あなたによって観察されるべきです−
      『私は身によるこの行為を為したかどうか?
      私のこの身行は自分を害しているかどうか、他人を害しているかどうか、両者を害しているかどうか−
      つまり、この身行は不善かどうか、苦を生じ、苦を結果するかどうか(招来するかどうか)?』 と。


    18 その時、ラーフラよ、もし、あなたが観察しつつある時に、次のように知るならば−
      『確かに、私は身によるこの行為を為した
      私のこの身行は自分を害している、他人を害している、[結局は]両者を害している−
      つまり、この身行は不善であり、苦を生じ、苦を結果する(招来する)ものである』 と、
      ラーフラよ、あなたによって、このような身行は師に対して、または有知の同梵行者(同行者)に対して、
      [まず]告げられるべきであり、語り尽くされるべきであり、[さらに]明瞭にされるべきです。
      [まず]告げて、語り尽くして、[さらに]明瞭にして、将来に防護をすべきです。
    19  しかし、ラーフラよ、もし、あなたが観察しつつある時に、次のように知るならば−
      『確かに、私は身によるこの行為を為した
      私のこの身行は自分を害していない、他人を害していない、[結局は]両者を害していない−
      つまり、この身行は善であり、楽を生じ、楽を結果する(招来する)ものである』 と、
      ラーフラよ、あなたはそれ(善行)によって[もたらされる]喜悦を[糧として]、
      昼夜、善法を随学して(昼夜、善行を実践し続けて)住するべきです。


110
111

      [ 110、111番 は以下のように109番の「身」をそれぞれ「口」、「意」と読み替える。ただし、111の「意」の38、39は以下に記す。]


           109  110  111

           身   口   意

           11   21   31    行為直前の気づき
           12   22   32    答え:不善の場合
           13   23   33    答え:善の場合


           14   24   34    行為中の気づき
           15   25   35    答え:不善の場合
           16   26   36    答え:善の場合


           17   27   37    行為直後の気づき
           18   28   38    答え:不善の場合
           19   29   39    答え:善の場合



    38 その時、ラーフラよ、もし、あなたが観察しつつある時に、次のように知るならば−
      『確かに、私は意によるこの行為を為した、
      私のこの意行は自分を害している、他人を害している、[結局は]両者を害している−
      つまり、この意行は不善であり、苦を生じ、苦を結果する(招来する)ものである』 と。
      ラーフラよ、あなたによって、このような意行は
      憂うべきであり、心に恥じるべきであり、厭うべきです。
      憂えて、心に恥じて、厭い、将来に防護をすべきです。
    39 しかし、ラーフラよ、もし、あなたが観察しつつある時に、次のように知るならば−
      『確かに、私は意によるこの行為を為した、
      私のこの意行は自分を害していない、他人を害していない、[結局は]両者を害していない−
      つまり、この意行は善であり、楽を生じ、楽を結果する(招来する)ものである』 と。
      ラーフラよ、あなたはそれ(善行)によって[もたらされる]喜悦を[糧として]、
      昼夜、善法を随学して(昼夜、善行を実践し続けて)住するべきです。


112
      ラーフラよ、過去において、身行を清くし、口行を清くし、意行を清くしたところのいかなる沙門でも婆羅門でも
      すべての人々は、まさしくその様に(これまで述べた様に)
      観察して観察して身行を清くし、
      観察して観察して口行を清くし、
      観察して観察して意行を清くしたのです。
      また、ラーフラよ、未来において、身行を清くし、口行を清くし、意行を清くするだろうところのいかなる沙門でも婆羅門でも
      すべての人々は、まさしくその様に(これまで述べた様に)
      観察して観察して身行を清くし、
      観察して観察して口行を清くし、
      観察して観察して意行を清くしするでしょう。
      また、ラーフラよ、現在において、身行を清くし、口行を清くし、意行を清くするところのいかなる沙門でも婆羅門でも
      すべての人々は、まさしくその様に(これまで述べた様に)
      観察して観察して身行を清くし、
      観察して観察して口行を清くし、
      観察して観察して意行を清くしているのです。


      [自分に対して]
      それゆえに、ここに、ラーフラよ、『 [私は]
      観察して観察して身行を清くし、
      観察して観察して口行を清くし、
      観察して観察して意行を清くしよう 』 と−
      ラーフラよ、実に、このように、あなたによって学ばれる(実践される)べきです」と。
      このように、世尊は説かれた。
      適意の尊者ラーフラは世尊の説かれたことに歓喜した、と。


      [比丘品の]一番目、アンバラッティカーでのラーフラ教誡経、終了




      (注)自分の行為を観察して善・不善を判断する時、世尊は
         両者に害がある場合と、両者に害がない場合の二通りを示され、
         一方に害があり他方に害がない場合を示されなかった。

         真実は、前の二通りしかないということで、
         一方に害があり他方に害がないということは「有り得ない」こと
         とされたのであろう。

         しかし、世間の立場で考える人は、「一切は苦である」と言われると
         「楽しいこともあるじゃないですか」と答えるように、
         「一方に害があり他方に害がない場合もあるじゃないですか」と思うだろう。

         仏教理論が世間の論理を超越していることが分かる。




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法相続人経

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Majjhimanikāya

Mūlapaṇṇāsapāḷi

1. Mūlapariyāyavagga

  3.Dhammadāyādasutta

     法相続人経

                                                             〔 〕:補足、( ):説明


29   このように私によって聞かれました。或る時(一時)世尊はサーワッティー(舎衛城)の
    ジェータワナ(祇陀林)にあるアナータピンディカ長者の僧園(祇園精舎)に滞在されておられた。

    実に、その時、世尊は比丘たちに呼びかけられた − 「比丘たちよ」と。
    「尊師よ」と彼ら比丘たちは世尊に応えた。



          [法の相続、財の相続、および世間の評価]


    世尊はこのように言われた−
    「比丘達よ、私の法の相続人になりなさい、財の相続人になってはなりません。


    私に、あなた方に対する憐れみがあります−
    『どうだろう、私の弟子たちは法の相続人であって、財の相続人になっていないだろうか?』と。


    比丘達よ、あなた方が、私の財の相続人であって、法の相続人でないならば、
    それゆえに、あなた方は指摘を受けるでしょう−
    『師の弟子たちは、財の相続人として住しており、法の相続人ではない』と。
    それゆえに、私もまた指摘を受けるでしょう−
    『師の弟子たちは、財の相続人として住しており、法の相続人ではない』と。


    しかし、比丘達よ、あなた方が、私の法の相続人であって、財の相続人でないならば、
    それゆえに、あなた方は指摘を受けないでしょう−
    『師の弟子たちは、法の相続人として住しており、財の相続人ではない』と。
    それゆえに、私もまた指摘を受けないでしょう−
    『師の弟子たちは、法の相続人として住しており、財の相続人ではない』と。
    それゆえに、ここに、比丘達よ、私の法の相続人になりなさい、財の相続人になってはなりません。


    私に、あなた方に対する憐れみがあります−
    『どうだろう、私の弟子たちは法の相続人であって、財の相続人になっていないだろうか?』と。



          [財への接し方とその理由]


30   ここに、比丘達よ、私は
    欲するだけ気ままに十分に食事をし、食べ終わって満腹になったとしましょう、
    そして、私には、[この]托鉢食は、残余のもの、捨てられるべきものであるとします。
    時に、飢えて弱り打ち負かされた二人の比丘が来たとしましょう。
    私は彼らにこのように言います − 『比丘達よ、実に、私は
    欲するだけ気ままに十分に食事をし、食べ終わって満腹になっています、
    そして、私には、この托鉢食は、残余のもの、捨てられるべきものです。
    もし望むのであれば食べなさい、もし、あなた方が食べないのであれば、
    今、私は、無草地に捨てるか、或は無虫の水に沈めるだろう』と。


    その時、一人の比丘にこのような(思い)があったとしましょう−
    『実に、世尊は欲するだけ気ままに十分に食事をし、食べ終わって満腹になられています、
    そして、世尊には、この托鉢食は、残余のもの、捨てられるべきものです。
    もし、私たちが食べなければ、
    今、世尊は、無草地に捨てるか、或は無虫の水に沈められるだろう。
    しかし、実に、世尊によって、このように説かれたのだ−
    《比丘達よ、私の法の相続人になりなさい、財の相続人になってはなりません》と。
    そして、実に、これ即ち托鉢食は、財の一つである。
    私は、この托鉢食を食べずして、まさに、この飢えて弱った[身体]で
    このように、この夜昼を過ごすとしよう』と。
    彼は、その托鉢食を食べずして、まさに、その飢えて弱った[身体]で
    このように、その夜昼を過ごすでしょう。


    また、第二の比丘にこのような[思い]があったとしましょう−
    『実に、世尊は欲するだけ気ままに十分に食事をし、食べ終わって満腹になられています、
    そして、世尊にとっては、この托鉢食は、残余のもの、捨てられるべきものです。
    もし、私たちが食べなければ、
    今、世尊は、無草地に捨てるか、或は無虫の水に沈められるだろう。
    私は、この托鉢食を食べて、飢えて弱った[身体]を除いて、
    このように、この夜昼を過ごすとしよう』と。
    彼は、その托鉢食を食べて、飢えて弱った[身体]を除いて
    このように、その夜昼を過ごすでしょう。


    比丘たちよ、たとえ、その比丘が、その托鉢食を食べて
    飢えと衰弱を除いて
    このようにその夜昼を過ごしたとしても、
    実に、私にとって、その最初の比丘こそが、より尊敬されるべきであり、賞賛されるべきなのです。
    それはどういう理由(わけ)でしょうか?
    比丘たちよ、実に、それは、その比丘にとって、長きに渡って、少欲、知足、
    削減、易養性、精進努力に作用するからです。
    それゆえに、ここに、比丘達よ、私の法の相続人になりなさい、財の相続人になってはなりません。


    私に、あなた方に対する憐れみがあります−
    『どうだろう、私の弟子たちは法の相続人であって、財の相続人になっていないだろうか?』と。
    世尊はこのように言われた。このように言われて
    善逝は座より立ち上がって精舎に入って行かれた。



          [法相続の具体的な説明および世間の評価]


31   その時、実に、尊者サーリプッタは、世尊が去って間もなく比丘たちに呼びかけた−
    「友らよ、比丘らよ」と。
    「友よ」と、実に、彼ら比丘たちは尊者サーリプッタに応えた。
    尊者サーリプッタは、[財に溺れ在家に親しみ、法の相続を疎んじる出家者にまず必要なことは「遠離」であるとの思いから]
    このように言った−
    「友らよ、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいないと、どうなるでしょうか?
    或は、また、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいると、どうなるでしょうか?」と。
    「実に、友よ、我々が遠くから来るのも、
    尊者サーリプッタのもとでこの言説の意味を理解するため[です]。
    どうぞ、まさに尊者サーリプッタにこそ、この言説の意味が現れよ(尊者サーリプッタこそ、この言説の意味を明らかにされよ)、
    尊者サーリプッタに聞いて、比丘たちは保持したいものです」と。
    「然らば、友らよ、聞きなさい、善く意において為しなさい(友らよ、聞いて、善く考えなさい)、話しましょう」と。
    「そのように、友よ」と、彼ら比丘たちは尊者サーリプッタに応えた。


    尊者サーリプッタはこのように説いた−
    「友らよ、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいないと、どうなるでしょうか?
    ここに(つまり)、友らよ、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいない、
    そして、[弟子たちは]師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てていない、
    そして、[弟子たちは]贅沢で、放慢で、堕落に対しては前進し、
    遠離に向かっては置きっ放しにされた荷物のように[動かない状況ということです]。


    その場合、友らよ、長老比丘たちは、三つの理由によって非難されるべきです。
    『師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちは遠離を随い学んでいない』と−
    この第一の理由によって長老比丘たちは非難されるべきです。
    『そして、師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てていない』 と−
    この第二の理由によって、長老比丘たちは非難されるべきです。
    『そして、贅沢で、放慢で、堕落に対しては前進し、遠離に向かっては置きっ放しにされた荷物のように[動かない状況]である』と−
    この第三の理由によって、長老比丘たちは非難されるべきです。
    友らよ、長老比丘たちは、これら三つの理由によって非難されるべきです。
    さて次に、友らよ、中堅比丘たちは ・・・ 中略 ・・・
    新参比丘たちは三つの理由によって非難されるべきです。
    『師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちは遠離を随い学んでいない』と−
    この第一の理由によって新参比丘たちは非難されるべきです。
    『そして、師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てていない』 と−
    この第二の理由によって、新参比丘たちは非難されるべきです。
    『そして、贅沢で、放慢で、堕落に対しては前進し、遠離に向かっては置きっ放しにされた荷物のように[動かない状況]である』と−
    この第三の理由によって、新参比丘たちは非難されるべきです。
    友らよ、新参比丘たちは、これら三つの理由によって非難されるべきです。
    友らよ、実に、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいないと、このようになるのです。


32   或は、また、友らよ、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいると、どうなるでしょうか?
    ここに(つまり)、友らよ、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいる、
    そして、[弟子たちは]師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てている、
    そして、[弟子たちは]贅沢でなく放慢でなく、堕落に対しては置きっ放しにされた荷物のように[動かず]、
    遠離に向かっては前進している[状況ということです]。


    その場合、友らよ、長老比丘たちは、これら三つの理由によって賞賛されるべきです。
    『師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちは遠離を随い学んでいる』と−
    この第一の理由によって長老比丘たちは賞賛されるべきです。
    『そして、師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てている』 と−
    この第二の理由によって、長老比丘たちは賞賛されるべきです。
    『そして、贅沢でなく放慢でなく、堕落に対しては置きっ放しにされた荷物のように[動かず]、遠離に向かっては前進している』と−
    この第三の理由によって、長老比丘たちは賞賛されるべきです。
    友らよ、長老比丘たちはこれら三つの理由によって賞賛されるべきです。
    さて次に、友らよ、中堅比丘たちは ・・・ 中略 ・・・
    新参比丘たちは三つの理由によって賞賛されるべきです。
    『師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちは遠離を随い学んでいる』と−
    この第一の理由によって新参比丘たちは賞賛されるべきです。
    『そして、師が捨断を説かれたところのそれら諸々の法を捨てている』 と−
    この第二の理由によって、新参比丘たちは賞賛されるべきです。
    『そして、贅沢でなく放慢でなく、堕落に対しては置きっ放しにされた荷物のように[動かず]、遠離に向かっては前進している』と−
    この第三の理由によって、新参比丘たちは賞賛されるべきです。
    友らよ、新参比丘たちはこれら三つの理由によって賞賛されるべきです。
    友らよ、実に、師が既に遠離して住んでおられる状況で、弟子たちが遠離を随い学んでいると、このようになるのです。



          [捨断すべき法とその方法]


33   さて、友らよ、[二番目の「捨断すべき法」について補足説明をしておきましょう、]
    貪り[という法]は悪しきものであり、怒り[という法]は悪しきものです。
    貪り[という法]の捨断のために、怒り[という法]の捨断のために、中道があり、
    [その実践が]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導くのです。


    友らよ、[実践すれば]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導く、その中道とはどのようなものでしょうか?
    それこそは聖なる八正道のことであり、つまり
    正見、正思惟、正語、正業、
    正命、正精進、正念、正定のことです。
    友らよ、これが、その中道のことであり、
    [その実践が]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導くのです。


    さて、友らよ、瞋り[という法]は悪しきものであり、恨み[という法]は悪しきものです。・・・ 中略 ・・・


    覆[という法]は悪しきものであり、悩[という法]は悪しきものです。
    嫉妬[という法]は悪しきものであり、物惜しみ[という法]は悪しきものです。
    誑(たぶらかし)[という法]は悪しきものであり、諂(へつらい)[という法]は悪しきものです。
    強情[という法]は悪しきものであり、激情[という法]は悪しきものです。
    慢[という法]は悪しきものであり、過慢[という法]は悪しきものです。

    憍慢[という法]は悪しきものであり、放逸[という法]は悪しきものです。
    憍慢[という法]の捨断のために、放逸[という法]の捨断のために、中道があり、
    [その実践が]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導くのです。


    友らよ、[実践すれば]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導く、その中道とはどのようなものでしょうか?
    それこそは聖なる八正道のことであり、つまり
    正見、正思惟、正語、正業、
    正命、正精進、正念、正定のことです。
    友らよ、これが、その中道のことであり、
    [その実践が]眼を生じさせ、智を生じさせ、寂静に、証智に、正覚に、涅槃に導くのです。


    尊者サーリプッタはこのように説いた。
    適意の彼ら比丘たちは尊者サーリプッタの言説に歓喜した、と。


    第三の法相続人経が終了した。


     (注)「無草地に捨てるか、或は無虫の水に沈める」とは、油類の残飯を捨てることによる生態系への影響を抑える配慮と思われる。
         自然復元力の範囲であれば大きな問題はないであろう。また、小動物の餌ともなりうるであろう。


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