東京パーリ語研修会のご案内

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東京パーリ語研修会では、下記3つの活動を行っています。

パーリ語に興味のある方でしたら、どなたでも参加出来ます。

参加を希望される方や詳細のお問い合わせは、pali_kensyuukai@yahoo.co.jpへご連絡下さい。


パーリ語初心者講習

パーリ語初心者講習会は、文字通り、初心者を対象とした講習会です。
これは、月1回(第2日曜日または土曜日の午後)の3回シリーズで、品川区または目黒区内で開催しています。

開催時期および回数は2月頃と9月頃の年2回です。


これを受講していただきますと、パーリ語の基礎と概要が把握できると思います。

テキスト代は1,000円、参加費は毎回500円です。
その他、パーリ語の辞書(4,500円+税)は事前に購入していただくことになっています。


パーリ語勉強会

パーリ語勉強会は、上記、講習会を受講された方、または、すでにパーリ語の基礎知識がある方を対象とし、
各自、テキストの練習問題を解いてきていただいて、当日、レポートしていただきながら、
添削していくものになっています。



パーリ語輪読会

パーリ語輪読会は、上記、勉強会でLesson14前後まで終了しているか、または、それと同等以上の方で、
実際にパーリ経典を読んでいます。




参加を希望される方や詳細のお問い合わせは、pali_kensyuukai@yahoo.co.jpへご連絡下さい。



大和田幸一様、
お問い合わせありがとうございました。
メール返信しましたが、エラーメッセージが帰って来ました。
お手数ですが、別メールアドレスで再度ご送信下さい。
よろしくお願い致します。




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慈経

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Khuddakanikāya

Khuddakapāṭhapāḷi

9. Mettasuttaṃ

    慈経

                                                                 〔 〕:補足、( ):説明


               [1.慈しみを実践する人の心構え]


1. 寂静の境地(涅槃・解脱)を目指して、[戒定慧即ち八正道の実践という]義(よいこと)に巧みな[人]によって為されるべきこと、それは、

   [何でも]さっさと熟(こな)し、心が強く、強靭で、素直で、柔軟で、思い上がることがないようにあれ[ということです]。


2. また、[現状に]満足し、養いやすく、少ない雑務で、簡素に生活し、

   五感を静め、賢明で、厚かましさや裏表がなく、〔托鉢する〕家々に執着せず、


3. それ(為したこと)によって他の[智慧ある]識者達が非難するだろう、どんな小さな〔過ち〕でも犯さないように[あれということです]。



               [2.慈しみの定義]


   幸福であれ、平安であれ、一切の衆生は自ら幸福となれ(生きとし生けるものは幸せでありますように)[と念じて下さい]。


4. [一切の衆生とは]どんな生命として存在するものでもということです。動くものも、動かないものも、残りがないように、

   長いものも、大きいものも、中くらいのものも、短いものも、痩せているものも、太っているものも、


5. 見たことのあるものも、見たことのないものも、遠くに住んでいるものも、近くに住んでいるものも、

   既に生まれたものも、生まれようとしているものも、一切の衆生は自ら幸福となれ(生きとし生けるものは幸せでありますように)[と念じて下さい]。



               [3.慈しみの育て方]


6. [欺かれても自分は]他者を欺かないように、[軽蔑されても自分は]軽蔑しないように、何処にいても、誰であっても。

   挑発や反抗心をもって、互い[の間]の苦しみを望まないように。


7. 母が自分の息子を、一人息子を、命がけで守るように、

   そのようにあらゆる生命に対しても、無量の[慈しみの]心を育てて下さい。


8. また、あらゆる世間に対しても、無量の慈しみの心を育てて下さい、

   上(無色界)にも、下(欲界)にも、また横(中間:色界)にも、制限されることなく、怨みなく、敵意なく。


9. 立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、横たわっている時も、眠っていない限り、

   [一瞬も途切れることなく]この[慈しみの]念を保って下さい、ここに、これを梵住(崇高な生き方)と言います。



               [4.慈しみの実践の結果]


10. [梵住の者は]邪見に近づかずして、持戒者であり、、正見を得て[預流果に達し]、

   諸々の欲における貪求を調伏して[一来果、不還果を獲得した後は]、実に確かに再び母胎に宿ることはなく、
   [その後、阿羅漢果(涅槃、解脱)に至るのである]と。


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蛇経

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Khuddakanikāya

Suttanipātapāḷi

1. Uragavaggo

1. Uragasuttaṃ

    蛇経
                                                            〔 〕:補足、( ):説明

1 [阿羅漢が]怒りの発生を破壊するのは、へび毒の拡がりを薬によって〔一瞬に抑える〕ごとし、[怒りは微塵も起こらない]。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


2 [阿羅漢が]余すところなく貪りを破壊したというのは、池に生えた蓮の花を〔池に〕入って〔根こそぎ抜き去る〕ごとし。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


3 [阿羅漢が]余すところなく渇愛を破壊したというのは、急流の川を涸渇せしめて〔しまうごとし〕。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


4 [阿羅漢が]余すところなく慢を破壊したというのは、大暴流(ぼる)が唯でさえ弱い葦の橋を〔完膚なきまでに破壊する〕ごとし。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


5 [阿羅漢が]諸々の生存において真我を見つけられなかったというのは、諸々のイチジクにおいて花を探す時のごとし。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


6 [阿羅漢の]内に諸々の怒りはない、また、かく有り無し[の疑]も超えている。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


7 [阿羅漢の]諸々の尋(思考、概念、想念)は破壊された、[自身の]内を余すところなく良く整え[禅定が得られた]故に。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


8 [阿羅漢は]行き(精進し)過ぎることなく退行する(怠る)ことなく、この[愛、見、慢]一切の妄執(煩悩)を超えている。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


9 [阿羅漢は]行き(精進し)過ぎることなく退行する(怠る)ことなく、世界において「この[形成された]一切は虚妄である」と知って〔住している〕。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


10 [阿羅漢は]行き(精進し)過ぎることなく退行する(怠る)ことなく、世界において「この[形成された]一切は虚妄である」と〔知って〕離貪している。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


11 [阿羅漢は]行き(精進し)過ぎることなく退行する(怠る)ことなく、世界において「この[形成された]一切は虚妄である」と〔知って〕離欲している。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


12 [阿羅漢は]行き(精進し)過ぎることなく退行する(怠る)ことなく、世界において「この[形成された]一切は虚妄である」と〔知って〕離瞋している。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


13 [阿羅漢は]行き(精進し)過ぎることなく退行する(怠る)ことなく、世界において「この[形成された]一切は虚妄である」と〔知って〕離痴している。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


14 [阿羅漢には]どんな随眠(潜在煩悩)もない、また諸々の不善の根(ね)も根絶されている。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


15 [阿羅漢には]此岸(しがん)に帰来する縁となるどんな不安も生じない。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


16 [阿羅漢には]生存に束縛するための原因となるどんな欲念も生じない。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


17 [阿羅漢は]五蓋を取り除いており、[心が]揺れることなく、疑いがなく、〔煩悩という〕矢が抜かれている。

  彼の比丘(阿羅漢)は、蛇が古びれ衰えた皮を〔脱ぎ捨てる〕ように、現世(げんせ)後世(ごせ)を捨て去る。


      第一の蛇経


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一切煩悩経

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Majjhimanikāya

Mūlapaṇṇāsapāḷi

1. Mūlapariyāyavaggo

2. Sabbāsavasuttaṃ

  一切煩悩経
                                                       〔 〕:補足、( ):説明
14(1)
このように私によって聞かれました。或る時(一時)世尊はサーワッティー(舎衛城)
ジェータワナ(祇陀林)にあるアナータピンディカ長者の僧園祇園精舎に滞在されておられた。
実に、その時、世尊は比丘たちに呼びかけられた --- 「比丘たちよ」と。
「尊師よ」と彼ら比丘たちは世尊に応えた。
世尊はこのように言われた --- 「比丘たちよ、一切の煩悩から〔心を〕防護する法門をあなたがたに説きましょう。
それを聞いて、善く作意しなさい。話しましょう」と。
「そのように、尊師よ」と彼ら比丘たちは世尊に応えた。世尊はこれを説かれた ---


15(2)
「比丘たちよ、私は、知ることから、理解することから、諸々の煩悩が滅尽されることを説きます、
知らないことからではなく、理解しないことからではなく。
比丘たちよ、〔私は〕何を知ることから、何を理解することから、諸々の煩悩が滅尽されることを説くでしょう?
如理作意(根源からの作意)と非理作意(根源からでない作意)を〔知ること、理解することからです〕。


比丘たちよ、非理作意者(根源より作意しない者)には、未だ生じていない諸々の煩悩が生じ、
生起した諸々の煩悩は増大します。
しかし、実に、如理作意者(根源より作意する者)には、未だ生じていない諸々の煩悩は生じず、
生起した諸々の煩悩は断ぜられます。


16(3)
比丘たちよ、煩悩は見方で断ぜられるべきです、煩悩は防護して断ぜられるべきです、
煩悩は受用して断ぜられるべきです、煩悩は忍受して断ぜられるべきです、
煩悩は回避して断ぜられるべきです、煩悩は除去して断ぜられるべきです、
煩悩は修習して断ぜられるべきです。


〔1〕 見方で煩悩が断ぜられる〔場合〕

17(4)
では、比丘たちよ、煩悩は見方で断ぜられるべきであるとはどういうことでしょうか?


比丘たちよ、ここに未聞の凡夫(非理作意者、根源より作意しない者)は ---
諸々の聖者に見えず、聖法を熟知せず、聖法に導かれず、
諸々の善人に見えず、善士法を熟知せず、善士法に導かれず ---
作意すべき諸法を知らず、作意すべきでない諸法を知らない。


(未聞の凡夫、非理作意者、根源より作意しない者)は作意すべき諸法を知らず、作意すべきでない諸法を知らないので、
作意すべきでないところの諸法、それらの法を作意
作意すべきところの諸法、それらの法を作意しない


比丘たちよ、では、どのような法は作意すべきでなく、
〔彼が〕作意するところの法でしょうか?
因みに、比丘たちよ、彼がこれらの法を作意するならば、
或いは、未だ生じていない欲という煩悩が生じたり、また、生起した欲という煩悩が増大します、
或いは、未だ生じていない生存という煩悩が生じたり、また、生起した生存という煩悩が増大します、
或いは、未だ生じていない無明という煩悩が生じたり、また、生起した無明という煩悩が増大します、
--- これらの法は作意すべきものでなく、〔彼が〕作意するところの法です。


比丘たちよ、また、どのような法は作意すべきであり、
〔彼が〕作意しないところの法でしょうか?
因みに、比丘たちよ、彼がこれらの法を作意するならば、
或いは、未だ生じていない欲という煩悩は生ぜず、また、生起した欲という煩悩は断ぜられます、
或いは、未だ生じていない生存という煩悩は生ぜず、また、生起した生存という煩悩は断ぜられます、
或いは、未だ生じていない無明という煩悩は生ぜず、また、生起した無明という煩悩は断ぜられます、
--- これらの法は作意すべきものであり、〔彼が〕作意しないところの法です。


(未聞の凡夫、非理作意者、根源より作意しない者)は、作意すべきでない法を作意する故に、
作意すべき法を作意しない故に、
未だ生じていない諸々の煩悩が生じ、そして、生起した諸々の煩悩は増大します。


18(5)
彼は次のように根源からではなく(邪に;間違って)作意します ---
『実際、過去に私は存在したのかどうか? 
実際、過去に存在しなかったのかどうか?
実際、過去に何になったのかどうか?
実際、過去に何故に存在したのかどうか?
実際、過去に私は何になって、何になったのかどうか?
実際、未来に私は存在するだろうかどうか?
実際、未来に存在しないのかどうか?
実際、未来に何になっているのかどうか?
実際、未来に何故に存在するのかどうか?
実際、未来に私は何になって、何になるだろうかどうか?』と。
或いは、今、現在に〔関して〕
自分に疑惑を持つ者となる --- 『私は実際に存在しているのかどうか?
実際に、存在していないのかどうか?実際、何になるのかどうか?実際、何故に存在しているのか?
実際、この生けるものはどこから来たのかどうか?彼はどこへ行くのだろうか?』と。


19(6)
彼が、このように根源からではなく(邪に;間違って)作意するならば、六つの見のうちの或る(一つの)見が生じます。
或いは、『私には我がある』と、彼に実際に強固に見が生じます;
或いは、『私には我がない』(断見)と、彼に実際に強固に見が生じます;
或いは、『〔私は〕我によってのみ我を知覚する』と、彼に実際に強固に見が生じます;
或いは、『〔私は〕我によってのみ無我を知覚する』と、彼に実際に強固に見が生じます;
或いは、『〔私は〕無我によってのみ我を知覚する』と、彼に実際に強固に見が生じます;
或いは、また、彼にこのような見が生じます --- 『私のこの我は、語ったり、感じたり、
ここかしこで、善悪の業の果報を受けているところのものであるが、
それ、つまり、私のこの我は常に堅固で常住で不変な性質のものであり、
永久にこのように存続するだろう』と。
比丘たちよ、これは悪見、見の密林、見難路、
見悶躁、見紛争、見結と言われます。
比丘たちよ、見結に縛られた未聞の凡夫は解放されない、
生から、老から、死から、諸々の心配ごとから、諸々の悲泣から、諸々の苦から、諸々の憂鬱から、諸々の悩みからも;
『苦から解放されない』と〔私は〕説きます。


20(7)
一方、比丘たちよ、多聞の聖なる弟子(如理作意者、根源より作意する者)は ---
諸々の聖者に見え、聖法を熟知し、聖法に導かれ、
諸々の善人に見え、善士法を熟知し、善士法に導かれ ---
作意すべき諸法を知り、作意すべきでない諸法を知っています。


(多聞の聖なる弟子、如理作意者、根源より作意する者)は作意すべき諸法を知り、作意すべきでない諸法を知っているので、
作意すべきでないところの諸法、それらの法を作意しないで、
作意すべきところの諸法、それらの法を作意する


比丘たちよ、では、どのような法は作意すべきでなく、
〔彼が〕作意しないところの法でしょうか?
因みに、比丘たちよ、彼がこれらの法を作意するならば、
或いは、未だ生じていない欲という煩悩が生じたり、また、生起した欲という煩悩が増大します、
或いは、未だ生じていない生存という煩悩が生じたり、また、生起した生存という煩悩が増大します
或いは、未だ生じていない無明という煩悩が生じたり、また、生起した無明という煩悩が増大します、
--- これらの法は作意すべきものでなく、〔彼が〕作意しないところの法です。


比丘たちよ、また、どのような法は作意すべきであり、
〔彼が〕作意するところの法でしょうか?
因みに、比丘たちよ、彼がこれらの法を作意するならば、
或いは、未だ生じていない欲という煩悩は生ぜず、また、生起した欲という煩悩は断ぜられます、
或いは、未だ生じていない生存という煩悩は生ぜず、また、生起した生存という煩悩は断ぜられます、
或いは、未だ生じていない無明という煩悩は生ぜず、また、生起した無明という煩悩は断ぜられます、
--- これらの法は作意すべきものであり、〔彼が〕作意するところの法です。


(多聞の聖なる弟子、如理作意者、根源より作意する者)は、作意すべきでない法を作意しない故に、
作意すべき法を作意する故に、
未だ生じていない諸々の煩悩は生ぜず、また生起した諸々の煩悩も断ぜられます。


21(8)
彼は『これは苦である』と根源より(正しく)作意します、
『これは苦の原因である』と根源より(正しく)作意します、
『これは苦の滅尽である』と根源より(正しく)作意します、
『これは苦の滅尽に至る道である』と根源より(正しく)作意します。
彼が、このように根源より(正しく)作意するならば、三つの束縛が断ぜられます、
--- 有身見、疑、戒禁取。


比丘たちよ、このように、煩悩は〔根源からの、正しい〕見方で断ぜられるべきであると言われます。


〔2〕 防護して煩悩が断ぜられる〔場合〕

22(9)
では、比丘たちよ、煩悩は防護して断ぜられるべきであるとはどういうことでしょうか?


比丘たちよ、ここに比丘(多聞の聖なる弟子、如理作意者、根源より作意する者)
根源より観察して眼根を防護して住します。
何故なら、比丘たちよ、彼が
眼根を防護せずに住するならば、諸々の煩悩、破壊の苦悩が生じるだろうし、
眼根を防護して住するならば、このように彼にはそれら諸々の煩悩、破壊の苦悩がないからです。
根源より観察して耳根を防護して住します、・・・ 中略 ・・・
鼻根を防護して住します、・・・ 中略 ・・・
舌根を防護して住します、・・・ 中略 ・・・
身根を防護して住します、・・・ 中略 ・・・
意根を防護して住します。
何故なら、比丘たちよ、彼が
意根を防護せずに住するならば、諸々の煩悩や破壊の苦悩が生じるだろうし、
意根を防護して住するならば、このように彼にはそれら諸々の煩悩、破壊の苦悩はないからです。


何故なら、比丘たちよ、彼が
防護せずに住するならば、諸々の煩悩や破壊の苦悩が生じるだろうし、
防護して住するならば、このように彼にはそれら諸々の煩悩、破壊の苦悩はないからです。


比丘たちよ、このように、煩悩は〔六根を〕防護して断ぜられるべきであると言われます。


〔3〕 受用して煩悩が断ぜられる〔場合〕

23(10)
では、比丘たちよ、煩悩は受用して断ぜられるべきであるとはどういうことでしょうか?


比丘たちよ、ここに比丘は、根源より(正しく)観察して法衣を受用します ---
ただ寒さの防除のために、暑さの防除のために、
あぶ、蚊、熱風、蛇との接触の防除のためにだけ、
ただ陰部隠匿の必要性があるだけです。
根源より(正しく)観察して托鉢食を受用します ---
(たわむ)れのためでなく、驕慢のためでなく、体格のためでなく、美容のためでなく、
ただこの身体の成立のために、存続のために、悩害の終息のために、
梵行を護るためだけにである、このようにして〔私は〕以前の苦痛を撃破し、
新しい苦痛を生じさせない、
そして私の暮らしは、過ちがなく、安住となるでしょう。
根源より(正しく)観察して臥所坐所を受用します ---
ただ寒さの防除のために、暑さの防除のために、
あぶ、蚊、熱風、蛇との接触の防除のためにだけ、
ただ時節の危険の除去や独坐の喜悦の利益があるだけです。
根源より(正しく)観察して病人の依りどころである薬という資具を受用します ---
ただ生起した諸々の病の苦痛を除くために、
悩害がなくなることを第一義としてだけ。


何故なら、比丘たちよ、彼が受用しないならば、諸々の煩悩や破壊の苦悩が生じるだろうし、
受用するならば、このように彼にはそれら諸々の煩悩、破壊の苦悩はないからです。


比丘たちよ、このように、煩悩は〔必要最小限のものを〕受用して断ぜられるべきであると言われます。


〔4〕 忍受して煩悩が断ぜられる〔場合〕

24(11)
では、比丘たちよ、煩悩は忍受して断ぜられるべきであるとはどういうことでしょうか?


比丘たちよ、ここに比丘は根源より(正しく)観察して耐えます。
寒さに、暑さに、飢えに、渇きに、
あぶ、蚊、熱風、蛇との接触に、
罵詈、誹謗などの言葉に
生起した身体の感受、苦しい、激しい、
粗なる、辛い、不快な、意にそぐわない殺生を忍耐する(受け入れる)類の者としてです。


何故なら、比丘たちよ、彼が忍受しないならば、諸々の煩悩や破壊の苦悩が生じるだろうし、
忍受するならば、このように彼にはそれら諸々の煩悩、破壊の苦悩はないからです。


比丘たちよ、このように、煩悩は〔対象、所縁を〕忍受して断ぜられるべきであると言われます。


〔5〕 回避して煩悩が断ぜられる〔場合〕

25(12)
では、比丘たちよ、煩悩は回避して断ぜられるべきであるとはどういうことでしょうか?


比丘たちよ、ここに比丘(多聞の聖なる弟子、如理作意者、根源より作意する者)
根源より(正しく)観察して凶暴な象を避けます、
凶暴な馬を避けます、凶暴な牛を避けます、凶暴な犬を避けます、
蛇を、切り株を、とげの場所を、穴を、断崖を、泥沼を、沼沢を。
坐所でない〔様〕相〔のところ〕に坐すようなことを、行所でない〔様〕相〔のところ〕に行くようなことを、
悪友相に親近するようなことを、智を有し梵を有し行ずる者たちは、悪い場所と判断するでしょう、
彼は、その非坐所を、非行処を、これらの悪友たちを、根源より観察して回避します。


何故なら、比丘たちよ、彼が回避しないならば、諸々の煩悩や破壊の苦悩が生じるだろうし、
回避するならば、このように彼にはそれら諸々の煩悩、破壊の苦悩はないからです。


比丘たちよ、このように、煩悩は〔危険を〕回避して断ぜられるべきであると言われます。


〔6〕 除去して煩悩が断ぜられる〔場合〕

26(13)
では、比丘たちよ、煩悩は除去して断ぜられるべきであるとはどういうことでしょうか?


比丘たちよ、ここに比丘は根源より(正しく)観察して、生起した欲尋(欲の考え)
認めず、断じ、除去し、終滅させ、無くさせる。
生起した瞋恚尋(瞋恚の考え)を ・・・中略・・・ 生起した害尋(害の考え)を ・・・中略・・・
次々と生起した諸々の悪不善法を
認めず、断じ、除去し、終滅させ、無くさせる。


何故なら、比丘たちよ、彼が除去しないならば、諸々の煩悩や破壊の苦悩が生じるだろうし、
除去するならば、このように彼にはそれら諸々の煩悩、破壊の苦悩はないからです。


比丘たちよ、このように、煩悩は〔不善なる考えを〕除去して断ぜられるべきであると言われます。


〔7〕 修習して煩悩が断ぜられる〔場合〕

27(14)
では、比丘たちよ、煩悩は修習して断ぜられるべきであるとはどういうことでしょうか?


比丘たちよ、ここに比丘は
根源より(正しく)観察して、念覚支を修習します、
遠離に依止し(遠離し)、離貪に依止し(離貪し)、〔煩悩の〕滅に依止し(滅し)、最捨(涅槃)に至る〔念覚支〕を;
根源より(正しく)観察して、択法覚支を修習します、 ・・・中略・・・
精進覚支を修習します、・・・ 喜覚支を修習します、・・・
軽安覚支を修習します、・・・ 定覚支を修習します、・・・
捨覚支を修習します、
遠離に依止し(遠離し)、離貪に依止し(離貪し)、〔煩悩の〕滅に依止し(滅し)、最捨(涅槃)に至る〔捨覚支〕を。


何故なら、比丘たちよ、彼が修習しないならば、諸々の煩悩や破壊の苦悩が生じるだろうし、
修習するならば、このように彼にはそれら諸々の煩悩、破壊の苦悩はないからです。


比丘たちよ、このように、煩悩は〔悟りの条件を〕修習して断ぜられるべきであると言われます。


28(15)
実に、比丘たちよ、〔この〕比丘の
見方で断ぜられるべきところの諸々の煩悩、それらは見方で断ぜられています、
防護して断ぜられるべきところの諸々の煩悩、それらは防護して断ぜられています、
受用して断ぜられるべきところの諸々の煩悩、それらは受用して断ぜられています、
忍受して断ぜられるべきところの諸々の煩悩、それらは忍受して断ぜられています、
回避して断ぜられるべきところの諸々の煩悩、それらは回避して断ぜられています、
除去して断ぜられるべきところの諸々の煩悩、それらは除去して断ぜられています、
修習して断ぜられるべきところの諸々の煩悩、それらは修習して断ぜられています、
それ故に、比丘たちよ、『〔この〕比丘は一切の煩悩から〔心を〕防護して住し、
渇愛を断ち、束縛を滅し、
正しく、慢の現観 〔慢の止滅〕 から、苦を終滅させた』と。」
世尊はこのように言われた。
適意のこれら比丘たちは、世尊の説かれたことに歓喜した、と。


第二の一切煩悩経が終了した


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